20111117

美食家の憂鬱

T
he Melancholy of epicurean.
かのブリア=サヴァラン曰く。
『せっかくお客をしながら、食事の用意に自ら少しも気を配らないのは、お客をする資格のない人である。』

チェーン店やフランチャイズ店、流行に乗った店が消える事に、私は何の感慨も持たない。しかし、通った店、其処にしか無い店が消えるのは、幕を下ろすのは、様々な理由があれ、残念でならない。何故ならば、その代わりになる店が存在しないからだ。
…様々な理由。そうだ、様々な理由。挙げればキリが無いであろう。しかし、忘れられがちで、全く問題にされない真実が、日本には1つだけ存在する。
『客は、君は、店を愛していたのだろうか?』
愛していても、別れは来るだろう。でも、未来へと続いていけるだけの愛が足りなかったとしたら? そもそも、愛してなどいなかったとしたら?
客が支払う対価は、金銭に非ず。愛と感謝と、献身に他ならない。食事代なんて物は、後払いの入場料に過ぎぬのだ。店が日々の努力を重ねたように、客は日々、何をしていただろうか?
『そんなものは知らない。全ては店の勝手だろう。もしくは、運が無かったのだ。』
そういう人もいるだろうが、残念ながら私の考えとは相容れない。何故ならば、“店”を“恋人”に置き換えてみたまえ。…ほら、私は君とは、友人になれそうに無い。
振り返って私は思う。私は本当に、愛していたのだろうかと。日々の快楽に、甘んじてはいなかったかと。恋人達が去る度ごとに、虚しさは悲しみで満たされて、ただ後悔だけが残される。
美食家は、グルマンディーズ(恋多き人)でもエピキュリアン(一途な人)でも構わない。問題は、その愛は真実であったのか。また、愛の無い付き合いをしてはいなかったのか。ただそれだけが、問題なのだ。

私は本当に、君を愛していたのだろうか。